そこで答えを出そうとしたあなたが好き
2024年2月5日、早朝。
朝からココアを飲みながら、本を読んでいる。
最近は、ちょっと忙しい日々が続いて、アウトプットばかりが続いていたような気もする。
文書を書いたり、写真を撮ったり、動画を編集したり、かっこよく言えば「制作」と呼ばれるような活動がつづいている。
しかし、先日、アウトプットの出力低下に気付いた。
何も書けなくなったり、創れなくなる瞬間に出くわすのは慣れっこだけども、先週のそれは少し様子が違った。
端的に言えば、何も書けなくなっている現状に、気づいていない自分が存在していた。
自分では必死に制作を続けて、デスクに向かっているのに、一日を終えてみると殆ど何もできていなかった。
きっと、先週の自分は「何も作ることの出来ていない自分を直視するのが怖かった。それを誤魔化すために、デスクに向かってやっているふりをしていた。」のだと思う。
その時に、まずはインプットをしよう、そして正しいアウトプットを行おう。そう思った。
先週から、意図的に作業時間を減らして本を読むようにした。
あたらしい本をAmazonで取り寄せたりもした。
不思議と、喧騒の中に置かれていたような頭の中が静かになっていった。
本を読むことで、制作に集中できていない自分がいなくなることにも気づけた。
創れない自分を誤魔化す無駄な時間を削減できた。
不出来な自分を誤魔化してはいけないと感じた。
格好悪い事実を認めようと思った。
まだまだ、自分にはできないことだらけだけども、それを楽しもうとも思った。
年を重ねていくと、どうしたって失敗は怖い。知らないことは恥ずかしい。自分がみんなじゃないことに焦る。
なんで自分だけと、悲観に苛まれることもある。
いや、違う。これを悲観と捉えている自分の意識こそが、怖くて恥ずかしいし焦る。
なぜ失敗するのが怖いか考えると、誰かの目があるからだろう、自分自身に厳しい目線を送り続けているからだろう。
裏側にしてみれば、失敗を恐れずにチャレンジできるのは、誰かの目を気にせず、自分自身を許せる環境にあるからなのだろう。
自分には何もできないと思わされる日があっても、仕方がない。それが事実だったとしても、つづけていく。誰の目を気にしても仕方がない、関係ない。比較対象は昨日の自分だけでいい。自分の思いだけは変えられる、世界や誰かは変えられない。
昨日、20年以上の付き合いになる友人が、珍しく、いまの心模様を聞かせてくれた。
あんみつを頬張りながら、先週の自分と重ねて話を聞いた。
分からないけども返事をした。
きっと、この記事に書いたようなことを話したと思う。
うまく伝わった自信はないけども、本当に思っていることは近しいような似たような言葉にしかならないことも承知している。
でも、よかった。あなたの心の中にある違和感を、そのままにしないあなたでいてくれて良かった。
自分も、きちんと誤魔化さずに、もう少し頑張ってみようと思う。
やっていきましょう。