10年後に懐かしんでいる今の生活
画像は、3年ぶりくらいに作った卵焼きです。なんだかんだ、うまく作れて美味でした。
友人が苦境に追い込まれており、なんとかしたいなという思いがあります。なんとかしたい、などという思い上がりは甚だしいものですが、それでも力になりたい思いに偽りはありません。いつの時代になっても、人間同士の軋轢、思い込み、誤解、などは、自分が思う以上に深刻だなと思い知らされました。
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未来への不安を挙げればキリがありません。大きな話題から個人的な話題まで、不安という付箋は至る所に散らばっているように見えます。また、可視化、言語化できてしまう、便利な世の中だからこそ見えてしうものもあるかもしれません。認識できなかったものが認識できるようになるのは、手放しで喜べるものではないのかもしれません。便利でありながら不便な時代でもあると感じました。
毎日が不安なしで過ごせれば理想というわけではありません。不安があるからこそ、明日をどう生きようかと考えることができ、こうして思いを書き留めることもできるものです。
不安が蔓延する世の中だと感じます。「これは不安なんだよ」と誰かが囁くと、それまで不安ではなかった現実が不安に見えてくるものです。キャッチ―なコピーが頭にこびりつきます。しかしながら、心に残っているのは、どういうわけか言語化できない漠然とした不安であることが殆どだったりします。
それにしても、思ったことは思った通りに言葉になりません。伝えようとしてもうまく伝わりません。伝えたいと思う自分はここにいるのに、伝えられた自分はいつも存在しません。これも見方の問題なのか、角度によって解釈は変わるのか、そんなことを何度も考えました。自分自身に抱く葛藤についても、穏やかな心で眺めることができないかと考えてしまいます。
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10年前のことを思い出すことがあります。今すべて思い出になったとは言い切れませんが、再生すると、言葉に詰まる場面があります。一方、その当時お世話になった方々の活躍を願わずにはいられません。今現在に通じるものもたくさん出てきます。あの頃は良かったなと自嘲気味に思ってしまう場面もあります。ただ、視点を変えて今から10年後の未来から見ると「良かったあの頃」は、10年前である今であることにも気付きます。
20年前のことは、ほとんどが思い出になりました。当時の思い出や記憶を再生すると、そのほとんどが懐かしい場面に昇華されていることに気付きます。同じく20年後の未来から見ると「昇華された懐かしい場面」は今であることに、再び気付きます。
不安で仕方ない毎日を過ごしても、楽しくて仕方ない毎日を過ごしても、10年後や20年後に思い出す景色は、結局「あの頃そんなことがあったな、でもいま生きているな」という点に集約されていきます。そんなものだと、最近気付きました。であるならば、不安で仕方ない現在であっても、楽しんだ方がいいなと思うようになりました。
取り返せない過去や失ってしまった未来、リセットしたい今、そんな声に触れることが最近ありました。自分の内なる声でもありますが、凡人である自分は、凡人であることを死ぬまで続けることしか術もありません。ポジティブに励ますつもりもなく、取り返せない過去は事実であり、失ってしまった未来やリセットしたい今もすべて本当のことです。事実です。それで充分です。
これからどうするのが現時点での最良でしょうか、そんなことを考えました。結論は出ませんでしたが、それを考えるだけで十分だと思います。どうせ10年後にはすべてが過去になり、20年後には昇華された懐かしい場面になるのだから、それに基づいて考えていけばいいと思い至りました。
さいきん読んだ本の中に「傷を愛せるか」というものがあります。
どうも、数年前に発刊された本のようですが、SNSで表題の本の話題が流れてきたのでつい衝動買い。
最近は、ほとんど電子書籍で済ませてしまうのですが、紙版しかなかったことに時代背景を感じてしまいました。
溺れそうな気持ち。必死で手足をばたつかせないと、沈んでいきそうな感覚。息苦しくて、なにがなんでも水面上に顔を上げてしまいたくなる気持ち。すくんで縮こまる身体。何かにしがみつきたくなる衝動。上手に泳げるようになったら、忘れてしまうであろうその感じを、できればずっと覚えていたい。
引用:傷を愛せるか 宮地尚子 ちくま文庫
不安でもいい、続けていく。楽しくなくていい、好きでなくてもいい、つらくていい。これまでの全部で、今もこれからも生きていく。
そんなことを反芻しながら、今日もやっていきます。
つくったり、書いたり、表現していきましょう。